中古車

武豊との新コンビで香港国際カップに挑戦する。武は「依頼が来るのを待つのが騎手」というスタイルを崩して、自ら陣営に新馬戦以来気になっていた本馬の騎乗を申し出たという。レースでは1600m通過タイムが同日の香港マイルの勝ち時計を上回るペースで逃げ、ゴール前まで粘り、勝ち馬から僅差の5着。健闘したが、出走までの経緯がドタバタしていたことに加えて、中2週という過酷なローテーションであったため、体調不良を起こしていた。夜行バス 京都 4歳時は、重賞の掲示板に1度載った程度の成績であった。しかし、境勝太郎元調教師は雑誌で「来年はGIを勝てる馬だ」と発言。また調教師の橋田も同世代の馬よりも成長が遅れており、その分これから成長が見込めると本馬の将来を期待していた。この1年目に培った「大逃げ」というレーススタイルと、ここから始まった武とのコンビが、翌年の快進撃を導くことになる。 5歳(1998年)夜行バス 大阪 年明け初戦、東京競馬場でのオープン特別バレンタインステークスを4馬身差の圧勝。関西を拠点とする武が、オープン特別の騎乗のために東上するのは異例のことであった。その後中山記念を1 3/4馬身差で勝利し、重賞初制覇を果たすと、小倉大賞典(小倉競馬場の改修に伴う中京競馬場での時期を遅らせた代替開催)も3馬身差で完勝し、重賞を連勝。 金鯱賞夜行バス 格安 続く金鯱賞では、重賞3勝を含む4連勝中の菊花賞馬マチカネフクキタル・重賞2勝を含む5連勝中で後に香港国際カップを制するミッドナイトベット・重賞1勝を含む4連勝中のタイキエルドラドが出走するという非常にハイレベルなレースであったにも拘らず、重賞競走では非常に珍しい大差勝ち(11馬身差 タイム差1.8秒)のレコードタイムでの大楽勝。この時中京競馬場では、あまりの大差に4コーナーを回った時点で既に拍手と喝采が贈られ直線では大勢の観客から笑いがこぼれると言う珍事が起こった。ラジオたんぱのレース中継では、4コーナーを回る時に「さあ、拍手に送られて〜」と実況されている。武はゴール50m手前から小さくガッツポーズしている[1]。高速バス 東京 レースの内容も、最初の2戦こそただがむしゃらに走ってその能力差だけで勝っている状態だったものの、その後は息を入れることを覚えたためか二の脚を使えるようになるなど内容もよくなっており、後に「逃げて差す」と言われたスタイルも完成した。調教師の橋田もこの姿を「今なら安心して見ていられるよ」と語っていた。また、この時期から最大の目標を天皇賞(秋)に見据え始めた。高速バス 名古屋 宝塚記念 夏場に向けて中3週(月1度)間隔でレースに使ってきたため疲労がたまっていたこともあり、当初は金鯱賞の後に放牧へと出される予定ではあったが、ファンの期待に応えるため、体調もよく、「今の出来なら」ということで春競馬の総決算となる宝塚記念への出走を決める。だが当初は回避予定であったことと、主戦の武には既に年末の有馬記念までエアグルーヴへの騎乗の先約があったことから、サイレンススズカと同じ馬主・厩舎での処置で、出走予定のゴーイングスズカの主戦騎手であった南井克巳へと乗り替わった。ファン投票こそ後塵を拝し6位であったが、天皇賞(春)を制したメジロブライト、名牝エアグルーヴを抑え1番人気に支持される。レース本番は南井が初騎乗であるということと距離を考えて金鯱賞に比べ抑えぎみ[2]の競馬でレースを進め、最後の直線に入っても相手をぎりぎりまで引きつけたためステイゴールドに3/4馬身まで迫られたものの、ゴール前で鞭を入れるとすかさず加速して逃げ切り、初のGI制覇となった。夜行バス 神戸 ファンの中には「グリーンベルト」の恩恵[3]を受けていることや南井がそれを活かした騎乗をしていること、あるいはレース内容に納得のいかない人も多かったが、晴れてGIホースとなった。 毎日王冠高速バス 東京 目標である天皇賞(秋)へのステップとして選んだ秋初戦の第49回毎日王冠は、NHKマイルカップ優勝馬エルコンドルパサーと朝日杯3歳ステークス優勝馬グラスワンダーという、2頭の無敗の外国産4歳馬が出走するというハイレベルなメンバー構成となった。サイレンススズカは連勝中の勝ちっぷりや、直前の坂路調教でテレビ解説者が「速すぎる」と言うほどの時計を出していたことなどから単勝1.4倍の圧倒的1番人気に支持され、2番人気に骨折から復帰したグラスワンダー、3番人気にエルコンドルパサーが続いた。スカイホリデー 59キロの斤量と府中の長い直線が心配されたがレースではそれを感じさせず、ここでも1000m通過が57秒7のハイペースで逃げながら後半にさらに後続を突き放す内容で、勝ち時計1分44秒9とコースレコードに肉薄するタイムで快勝。辛うじて2馬身半差の2着まで差を詰めたエルコンドルパサーの鞍上蛯名正義に「影さえも踏めなかった」と言わしめ、3着のサンライズフラッグに至っては2着からさらに5馬身の差という、貫禄の逃げ切り勝ちであった。一方のグラスワンダーは故障明け久々のレースで、更に出遅れたにもかかわらず第4コーナーでしかけて強引に勝ちにいった騎乗に耐え切れず失速、5着に終わった。なお、この時レースを実況していたフジテレビの青嶋達也アナはその見事な逃げっぷりに「どこまで行っても逃げてやる!」と実況している。 ハイペースで先行しながら、上がり3 ハロン(600m)のラップタイムが出走馬中で最速だったエルコンドルパサーから0.1秒遅いだけであり、逃げ馬の常識を覆すレース結果となった。レース後、武は「1000mを56秒台で通過しても平気な馬ですから、今日は比較的ゆったり行けましたね。直線で確認のために一応後続を見ましたが、全然交わされる気はしませんでした」と語った[4]。この勝利で中距離においては名実共に当時の最強馬となったといっても過言ではなく、宝塚記念で実力に疑問を投げかけていたファンや「勝って来たのは相手が弱かったから」という意見を一蹴するほどの内容であった。沖縄旅行 このレースは「3強対決」として大いに盛り上がり、GII競走にもかかわらず東京競馬場には13万人の入場があり、通常GI勝利の際に行われるウイニングランが行われた。このレースは出走馬のレベルや内容から、現在でも名レースの一つに数えられている。他馬より成長が遅かった同馬であるが、この時期にはようやく馬体が完成し筋力がついたことで、春から比べて十分に仕上げても16kgの馬体重増であり、まだまだ秘めた能力があるといわれていた。これでこの年に入って6連勝で、最大の目標である天皇賞(秋)に王手をかける形となった。 天皇賞(秋)高速バス 関西 最大の目標であった第118回天皇賞(秋)であったが、特殊なコース形態である東京2000mのコースで行われるため、一般に外枠不利とされており、また同じ逃げ馬サイレントハンターが出走登録したこともあって同馬にとっては枠順が唯一の課題となっていた。しかし、抽選の結果は絶好の最内1番枠からの発走となった。『平成10年11月1日東京11レース1枠1番1番人気』の“1並び”で、そのスピードからスポーツ新聞には、同日に開催されていたF1日本GPにかけて“F1ホース”と呼ばれていた。顔ぶれは、前年の優勝馬エアグルーヴがエリザベス女王杯に回り、毎日王冠で下したエルコンドルパサー・グラスワンダーは外国産馬のため当時の天皇賞への出走資格はなく、強力なライバルは不在であった。さらに得意の左回り、サイレンススズカの適正距離とされていた2000mということで、単勝1.2倍の圧倒的1番人気に支持され、観衆の中には「今日は天皇賞の馬券を買いにきたのではない。サイレンススズカの勝つところを見に来た」と言う者までいたという。なお、このレース後には距離への挑戦も含めてジャパンカップへ参戦し、翌年はアメリカへ遠征するプランが発表された。レース前、多くのTVや競馬紙も上記の有利な条件も踏まえて、サイレンススズカが負ける要素を探すものの、ほとんどが苦し紛れの論理であり、アクシデントがない限りサイレンススズカは負けないという意見が大勢を占めた。さらに武はレース前に「今回も(普通の馬にとっての)オーバーペースで逃げるつもりです」と堂々と宣言し、他の馬など意識してないような自信満々の発言までしており、レース前からサイレンススズカが勝つことはまるで既成事実であるかのようになっていた。 このような経緯を経て、デビュー以来最高といっていい状態で出走したサイレンススズカは抜群のスタートでグリーンベルトに導かれ快調に飛ばし、前走を上回る1000m57秒4の超ハイペースで大逃げをうった。競りかける馬はサイレントハンターも含めて1頭もおらず3コーナー手前では2番手に10馬身、さらにそこから3番手までが5馬身と後続を大きく引き離し、テレビの中継カメラは目いっぱい引かなければすべての出走馬を映し切れないほどであり、ターフビジョンまでも画面に入り込むほどズームアウトされている[5]。北海道旅行 しかし、3コーナーを過ぎ、東京競馬場の名物大ケヤキの辺りを過ぎたところで突然サイレンススズカは失速。左前脚手根骨粉砕骨折発症により、競走を中止。画面には故障した左前脚が映し出されていた。結局予後不良と診断され安楽死処分となってしまう。これを府中の悲劇と呼ぶファンもいる。また、フジテレビの競馬中継を担当した塩原恒夫アナウンサーはこの事態に際し、咄嗟にサイレンススズカの父の名にかけた沈黙の日曜日という言葉を発し、強い印象を残した。ただし“沈黙”とはいえ、サイレンススズカがいなくなった最後の直線では悲鳴が上がっており、1着のオフサイドトラップがゴールした後も競馬場は異様な雰囲気に包まれていた。 皮肉なことに、オフサイドトラップは本来母ワキアに種付けられるはずだったトニービン産駒だった。勝ったオフサイドトラップの時計(1分59秒3)に関して後に武豊は、「サイレンスがそんなに早くバテる訳ない。やっぱり千切っていた。」という無念のコメントを残した。また、そのときスーパー競馬で解説をしていた大川慶次郎も無事に走りきれていれば8、9馬身は前で走っていたと解説し、同時に「これだから競馬には絶対がない」と語った。 死後ダイビング 粉砕骨折の詳しい原因はわかっておらず、武は「原因は分からないのではなく、ない」とレース後マスコミに対してコメントした。よく言われた意見は、皮肉にもサイレンススズカのあまりのスピードに骨が金属疲労のような症状を引き起こし、レース中に限界を迎えて骨折したというものであるが、これはやや短絡的である。なぜなら、短距離競走では条件戦でもサイレンススズカと同様のスピードでレースが展開し、その上でほとんど全ての馬が引退まで無事に走りきっているという点が無視されている。そのため、サイレンススズカはマイラーやスプリンターと同等のスピードで、距離の長い中距離路線を戦い続けた結果、こうした悲劇につながったのではないかとする意見もある。